攻殻機動隊 |
年中無休 すでに陽光は西へと沈み、周囲は闇とネオンに包まれる。新浜市の中心にある巨大な高層タワーのほぼ最上階に位置するのが公安9課のフロアだ。 犯罪を未然に防ぐということを目的に創設された公安9課は、少数精鋭。攻性の組織として日夜を問わず仕事に励んでいるのが実情だ。独り者の連中ばかりならばそれはそれで構わないのだろう。が、9課の中で唯一妻帯者のトグサにしてみれば、家に帰る機会が少ないのはある意味忌々しき問題だが。 中でもトグサは「少なくとも今日は早く帰りたい」と、心の中で願っていた。 「さあて、次のお仕事に参りますか」 別件がようやく片付いても仕事はまだまだ山のように溜まっている。少数精鋭の弱点である数的な問題は彼らの場合行動力でカバーするしかない。それをここに来てようやく飲み込んだトグサは億尾にも出さず事件ファイルをめくっている。いつにない意欲的な態度にトグサを遠巻きに見ていたバトーは肩を竦めた。 「なんだぁ、お前。いやにはりきってるなぁ」 椅子の背に腕を預け、くつろいでいるバトーにしてみれば、今日明日で終る仕事量だとは思っていない。どうせなら仮眠を取りながら、とでも考えていたところだ。 だが、トグサは相変わらずやる気満々でファイルをめくっては目ぼしい所をチェックしている。バトーにはそれが不思議と映ったらしい。 「今日は娘の誕生日なんでね。なるべく早く帰ってやりたいんだよ」 午後の8時を回った壁掛け時計を見上げてトグサは力なく笑った。 「へぇー、それはそれは家族サービスなことで」 刑事を引き抜いた時にはトグサは妻帯者だった。そういうリスクがあっても彼を引き抜くことに躊躇しなかったのはこの場にいないリーダー格の草薙素子。9課のメンバーには揃って『少佐』と呼ばれている女性だ。彼女は完全義体の持ち主なのだが。 シビアな仕事の中でもトグサは家族を大切にするという家族愛を忘れることはない。バトーにしてみれば9課の中で一番本来の人間らしさを持ち合わせている同僚だとわかっているが、その分極秘部分の多いこの仕事では危険を伴う可能性を捨てきれてはいなかった。 少佐の目を疑うつもりもないし、実際トグサは使える男であるから文句の一つもない。それでも時折何かがバトーの気にかかる。 「不規則なのは仕事上仕方ないからさ。こういうときくらいできる努力はしておきたいんだ」 「なるほど」 こういうときは親父の顔になるトグサを見て、バトーは素直に納得しておいた。 このフロアにはバトーとトグサが、奥のダイブルームにイシカワがいる。荒巻は外出していたが、他のメンバーもそれぞれの仕事へと駆けずり回っているはずだ。この仕事は特性上定時退社は存在しない。 電子音がそこここで聞こえる中、誰かがフロアへとやってくる足音がかすかにバトーの耳に届いた。この軽快なリズムには覚えがある。 「トグサ」 声がかかるまで誰が戻ったのか気付かずトグサは慌てて呼ばれた方へと顔を向けた。自分をここに呼んだ本人が初めて会った時と変わらない凛とした面持ちで立っている。 草薙素子、9課の行動面に関してリーダー的な存在の彼女は、見事なプロポーションに誰もが振り返る美貌を持ちながら、その行動力、洞察力には誰もが舌を巻く『凄腕』だ。9課の中でも少佐と呼ばれる彼女に敵う者は存在しない。揺ぎ無い強いサンセットの瞳が二人を捉える。 「少佐。……そっちも片付いたんですか?」 慌ててトグサは椅子から腰を浮かせ、彼女の方へと向き直る。わずかな時間だったが、草薙に気を取られたのは確かだ。トグサからの問いに草薙は一つ頷き、リズミカルな靴音を響かせ、フロアの中へと歩みを進めた。ふと左手首の時計に視線を落とす。まだ今日は終っていない。 「今終ったところだ。トグサ、お前はもう帰ってもいいぞ」 何気なく告げられた言葉にトグサはもちろん、バトーも目を丸くする。 「え?……でもこれから別件で出動するつもりなんですが」 「私が代わる」 即答され、トグサは目を瞬かせた。隣で椅子の背に肘をついていたバトーが意味ありげな笑みを浮かべたが、草薙は眉一つ動かさない。 「おやー、少佐殿。どういう心境の変化だぁ?」 「こっちのヤマが思っていたよりも早くあがったから、生憎手持ちに仕事がないし、別段用事があるわけじゃない」 冷やかすようなバトーの問いかけにも動じず草薙は不敵ともとれる笑みをその口端へと浮かべた。視線の端で己を見る草薙にバトーは内心納得する。先刻のトグサの話を何処から聞いたかは知らないが、察したらしい。さすが諜報戦のエキスパートというべきか。 「少佐……」 「帰ってあげたら?たまには良いんじゃない?」 「ありがとうございます」 娘の誕生日に父親の姿がないのは寂しいはずだ。たったそれだけのことを草薙が察したということにトグサは素直な気持ちを口にする。彼らの仕事に終わりがないことはわかりきっているが、それでも家庭と仕事と比べられたらトグサなら間近い無く家庭を取る。そういう男だと草薙にもよくわかっている。生憎と彼女にはそういう世情は皆無といえた。 恩を着せるつもりはないと言いたげに草薙は軽く手を上げてトグサからの言葉を受け流す。ちょうどイシカワがダイブルームから出てきたところと鉢合わせた。嬉々とした面持ちで帰宅の準備をしているトグサをみてイシカワは状況を大半理解した。 「帰るのか?美人の奥さんによろしくな」 「花の一つでも買って帰ってやれよ」 イシカワとバトーが口々に茶化すような口調で告げるもトグサは素直に礼を返し、フロアの出口まで走りながら何度も頭を軽くさげた。 「ああ。それじゃあ、悪いけどお先に」 「ああ、また明日」 すっかりパパの顔になっているトグサを草薙も笑みで見送る。 「はい、失礼します」 ハキハキとした声で別れの挨拶を告げ、トグサは慌しくフロアを出て行った。 「いいねぇ、待ってる人がいるってことは」 遠目で見送ってイシカワは背伸びをする。同じ姿勢だと身体が悲鳴をあげるのだ。草薙は視線だけでイシカワを見た。 「それって結婚したいってこと?」 「俺が、か?まさか。……冗談じゃない」 二度否定しながら肩を竦め、イシカワは曖昧に笑う。この家業で長い暮らしを強いられている彼らにとって家庭を持つということは夢物語に近い。9課が珍しいのではなく、トグサが稀なのだ。 欠伸をしながらイシカワは出入口へと歩いていった。バトーは椅子から立ち上がるとしばらくフロアを眺めていた。聴き慣れてしまった電子音が規則正しく聴こえてくる。 「さて、こっちも行きますか」 廊下に響く靴音が遠くなるのを耳にしながら、草薙は先ほどまでトグサがみていたファイルへと目を向ける。多々ある仕事のうちの一つ。そこまで切迫したヤマではないことは彼女の目には一目瞭然だった。 「そりゃあいいけどよ。……一体どういうつもりなんだよ、お前」 デスクに腰を降ろしながらバトーが口を挟む。その口調は普通だったが、どこか呆れたようにも聞こえた。 彼の言いたいことを察するに草薙はかすかな笑みを見せ、ファイルを閉じる。 「別に。手持ち無沙汰な時間を退屈だと考えるようになっているだけよ。まぁ、私たちの仕事は実質休日なし。ならば休める時に休む方がいい。『今日という日を自分自身のものと呼びうる人は幸せである』ってことね」 「17世紀の詩人、ドライデンか」 バトーの意外な即答ぶりに草薙はわずかに目を丸くした。だが、それだけだ。 「博学ね、バトー」 「フンッ、それくらい俺でも知ってらぁ。でもよぉ、いくら腕が立つからって妻帯者の本庁刑事を引っ張ってきた時点でわかりきってることじゃないか?」 茶化す草薙に仏頂面で返しながら、バトーは本筋を吐いて彼女の返答を待った。 別にトグサに問題があるわけではない。それはバトーにもよくわかっているが、大切な者を持っている人間が関わるにはこの仕事はリスクが多すぎるのだ。トグサ本人はもちろん、公安9課としても。 草薙はしばらく口を閉ざしていたが、ふと顔を上げてバトーを見た。彼女らしからぬ憂いを含んだ面持ちだった。 「そうね。……でも、帰る場所があるというのは、良いことだと思うわ」 「少佐……」 意外な言葉にバトーが閉口する。草薙は視線を彼からフロアへと動かして続けた。 「その場所がある限り、彼は強くなれる。だからたまにはサービスよ」 彼の能力と見合うだけの幸せ。それが仕事からではなく、家族という人間が本来培ってきた営みによってもたらされるトグサは、電脳こそすれ9課の中では一番人間としてありのままの姿に近い。感情の起伏を素直に表現できる。それこそ全身義体の草薙が生身の身体と共に失ってしまった感情といえた。 「お前も欲しいんじゃねぇのか?……そういう場所が」 バトーのすり変えた疑問符に草薙は目を細める。だが、バトーの面持ちは真剣そのものだった。彼女は呆れるように息を吐く。 「そうかもね。……でも、今の私には必要ない」 言い方は明らかにそっけない。鉄壁を思わせる少佐そのものだったが声音にはどこか張りが感じられない。バトーにはそう思えた。 彼女の生い立ちをバトーは知らない。まだ幼い頃に全身義体化するはめになったことは知っていたが、その経緯や事情は彼女の口に上ることはなかった。初めて出会ったのは戦場で。スナイパーとの闘いにもわずかの隙すら見つけられなかった。 また、バトーの生い立ちも草薙はもちろん他のメンバーも詳細は知らない。荒巻はその中には入らないが。そしてレンジャーに所属していた、程度の認識しかない。 出会ってから今まで、彼女の強さにはバトーも舌を巻いてきた。電脳戦だけではない、武術、戦術、話術、すべてにおいてエキスパートと言わしめた。 だが、稀に、バトーの杞憂に過ぎないと思っているが、少佐ではない草薙素子自身を垣間見うこともあるのだ。 「そうか?」 幾度も聞き返され草薙は嘲笑交じりの笑みを零す。見かけによらず繊細なのはむしろバトーの方だ、と。 「やけに絡むわね、バトー。あなたも帰りたかったの?」 「違う。俺は、ただ……」 「ただ?」 オウム返しに言葉を紡ぐ草薙は自分よりは頭二つは上のバトーを見上げた。サンセットの瞳が真っ直ぐバトーを見詰める。 「……いや、なんでもねぇ」 何故か喉まで出かかった言葉をバトーは寸でで飲み込み、曖昧な口ぶりで誤魔化した。 逆に口を閉ざしてしまったバトーに草薙は首を傾げる。彼が口にしかけた言葉はたぶん自分に対してなのだろう。気にはなったが、言う気が無いことをいわせるつもりはない。黙ってしまったバトーの代わりに草薙は一息吐いて、口を開いた。 「私たちの仕事は年中無休24時間。無駄口叩いている暇があったら、やるしかないわね」 「……昨今のコンビニよりも多忙だな」 「違いない」 二人して顔を見合わせ、かすかに笑う。 攻性の組織が9課の真髄だ。それこそ事件が起こってからでは遅すぎる。もっか彼らは国が経営する年中無休の24時間営業店なのだろう。 トグサが行くはずだったファイルはすでに頭の中にある。時間は少しも待ってくれない。草薙は切替えて椅子から立ち上がった。銃のホルスターを肩にかけながらバトーもそれにつづいた。 「少佐、時間が空いたら飲みに行かないか?」 バトーが廊下を歩きながら告げる。フロアとは違い声が反響する。二人分の靴音が響く中、草薙は肩を竦めるも歩みを止めなかった。 「年中無休だって、今言わなかった?」 訝しげな顔を見せながらもどこか憮然として草薙は視線の端でバトーを捉える。視線に気付いて今度はバトーが大げさに肩を竦めた。 「休日に、って話じゃねぇよ。事件が片付いて、なおかつ時間があれば、だぜ」 仕事中でも、その合間でも、ということだ。常人はアルコールの影響を受けるため無理な話だが、全身義体であるバトーと草薙ならば造作も無い。 「体内プラントのおかげでアルコールも数十秒で分解できる。便利なものだわ」 「茶化してるんじゃねぇよ。……まぁ、無理にとはいわねぇけど」 語尾が小さくなるバトーに草薙は笑った。どこか企んだ笑みだ。 「良いわよ、あなたのオゴリってことなら」 草薙の策略にまんまと乗せられて、おいおい……と、バトーが思わず呟いた。だが、諦めたように苦笑いへと変わる。 「まぁ、良いさ。……喜んで、少佐殿」 「フフッ。さぁて、まずは一件目、片付けるわよ」 見事目論みは成功し、草薙はほくそえむ。 二つの靴音が廊下に響き、やがて遠くなっていく。 闇に包まれ、喧騒の溢れるこの世界が彼女たちの仕事場だ。日が落ちてからの方がよからぬ者達も動きやすく、また彼女達の目にも捉えやすい。年中無休。眠る間さえ削って尚社会の闇は深い。それでも、攻性としての組織である9課のメンバーは日夜奮闘していく。 今夜もまた、彼女達のよって社会の平和は守られていた。 |