バトー&少佐
メモリーカード















記憶という曖昧な概念から、人間が解放されてどのくらいの時間が経ったのか、わからない。少なくとも自分の記憶が始まった時にはすでに世の中に溢れているのはメモリーに記録された現実に忠実なデータだけだった。

私の身体は全身が義体で、つもるところゴーストとわずかな脊椎が私の私としての持ち物。

電脳が一般的に広く普及し、他者と比べて劣る部分は部品を交換することで均一化を図っている。機械との境界が日に日に薄くなり、己の中に不可思議な葛藤が起こることも珍しくない。

公安9課に所属している草薙素子という人間が、果たして人間たりうるのか。









「今日のアレ、お前らしくないな、どうしたんだよ」

デスクに戻って真っ先にバトーが小声で告げる。それを予測していたのか素子は大げさに肩を竦めた。

「別に、大して問題があるとは思わないけれど?」

「まぁ、問題はないけどなぁ」

少しやりすぎのような気もするぜ。……と、バトーは零した。

事件を文字通り早期解決した少佐こと草薙素子の手腕はいつもどおり大したもので、攻性の組織たる公安9課を維持しているといっていい。
ただ今回、彼女らしくない荒っぽさをバトーは感じ取っていた。付き合いも長い故にわずかな変化も見逃さなかったという点においてはバトーは正しい。素子にしてみれば、その程度を見抜かれたからといって肯定も否定もする気はないだろうが。

冷静沈着を絵に描いたような少佐のわずかな苛立ちをバトーは何故か気になって仕方なかった。それが何なのか、もちろん今の彼にわかるはずはない。

「なぁ、少佐。何かあったのか?」

「何か、って何?」

「それがわかれば苦労しねぇよ。俺に説明を求められてもなぁ」

バトーは口篭もる。実際バトーの感の良さは経験や洞察力から来ている。それに理由を求められても答えようがなかった。
今回素子の微妙な変化を感じ取ったのも古株のイシカワと彼くらいなものだろう。素子は嘲笑めいた笑みを見せる。

「あなたの勘ってやつ?」

「そうだ。俺のゴーストが囁くのさ」

ニヤリと口角を吊り上げてバトーは言う。全身義体なのはお互い様だ。

「……ゴーストか」

だが、溜め息交じりに呟かれた言葉にバトーは微かに眉を寄せた。
気付かず、気付いていても悟らせず素子はデスク上のコーヒーカップに手を伸ばす。口に運ぶコーヒーはサイボーグ用ではない。味がわかるのかと聞かれれば「口には合わない」と答えるだろう。

「バトー、あなたの持ち物って何?」

「んあ?なんだよ、いきなり」

持ち物とはもちろん本来生まれ持った己の物ということだ。話の意図がわからずバトーは声を荒げた。
だが、次の瞬間、素子の視線の遠さを感じて閉口する。ただ窓の外を見ているだけではない。彼女の目はどこか遠くを見ている。そう気付く時がある。今のように。

「私の持ち物ってゴーストくらいなのよね。……眼には見えないゴースト」

その呟きがバトーに向けられていないことに焦燥感を掻き立てられる。近くても遠い。この距離のように素子と自分には明らかな隔たりを感じる瞬間がある。

「おい……」

焦燥の糸口が見えてバトーは口を挟みかける。それよりも先に素子はコーヒーカップをテーブルに置いた。

「果たして草薙素子という人間は本当に存在するのかしら」

素子の呟きにバトーは「やはりな」と内心納得した。鉄壁の少佐に不安があるとすればそれだけだ。生身の人間と完全義体の人間。身体のほぼ100%に近い殆どが機械化された人間を果たして人間と言うのか。迷いが生まれるとすればそれしかない。
時折見せる彼女の人間らしさに惹かれる反面、垣間見える彼女の葛藤に対して何もできないジレンマはバトーの中にあった。

「自分のゴーストを疑ってるのか?らしくねぇ」

そう皮肉めいた言葉を返すことしかできない。それがバトーは腹立たしい。
素子はかすかに自嘲めいた溜め息を吐いて、バトーを見上げた。バトーは見上げてくるその輝く赤い瞳を綺麗だと思う。

「この記憶がたった一枚に記録されたメモリーカードに集約されているデータだったとしたら……」

「……お前」

バトーにもその危機感はわかる。彼女の抱く疑問に返せる答えを持っているわけではなかったが、自身の根源に関する疑問は危険だ。
だが、不意に素子は表情を柔らかい笑顔へと変えた。張っていた肩から力を抜く。

「そう考えたこともあったのよ。……今は違うけどね」

少し意地の悪い顔を見せてバトーの肩をぽんっと叩いた。いつもの飄々とした態度に拍子抜けしてバトーは目を丸くする。

「なんだよ、そりゃあ」

「別に……たいした問題じゃないって言ったでしょ?」

「あのなぁ……」

ボリボリとバトーは頭を掻く。それを見て素子は悪戯を思いついた子どものような表情をする。何か企んでいる、あの顔だ。バトーは顔を顰めた。

「今日のアレ?……生理前なのよ」

ぼそりっと耳元で囁かれて、案の定脱力した。冗談にしてはセンスが悪いが、ここでツッコミを入れれば倍返しは当然だ。言いたくないことは言わないし、聞かない。バトーは大袈裟に肩を竦めた。諜報戦のプロとしても少佐を敵に回したくはない。垣間見せた不安は、彼女の苛立ちであって悲壮ではない。心配はいらない、そう言いたいのだ、彼女は。





「なぁ、少佐」

再び面倒そうに頭を掻きながら、バトーはそれでも今告げておきたいことを口に出すことにした。通信ではなく、己の口から伝えておきたかった。

「まだ何か?」

返って来る声はいつもの少佐のものだ。抑揚もなければ、感情もない。威圧感のある頼もしい声だ。
だが、バトーは怯むことなく素子を見据えた。真っ直ぐと彼女を見詰めて、目を反らさず口を開く。多少の躊躇いはあったが、今伝えておくべきことだと判断した。



「……俺は、例えお前がどんな姿になっても、俺の記憶装置が真っ白になっても、俺がお前を見間違えることはねぇ」



「バトー」



わずかに素子の声に戸惑いの色が浮かんだ。だが、返事を待たず背を向ける。




「それだけは言っとくぜ」



言いたいことだけを残し、出て行くバトーの背中を素子は少し意外そうに、それでも黙って見送った。やがて自動ドアが音もなくバトーを押し出していくと、窓の外に広がる外界へと視線を戻す。


デスク上に両肘を乗せ、掌に顎を預けて、素子はわずかに息を吐いた。





「似合わないわ……そんな気障な台詞」





でも、ありがとう……と、素子は口の中でそう呟いた。












バト素のつもり。