手を伸ばせ
昔、手を伸ばせば空に届くんだと思っていた。 もう遠い昔の話。思い出せないくらいガキのころの話だ。 いつから現実ってやつを知り、そんなおとぎ話みたいな事を口にするどころか、思うこともなくなった。 青く晴れ渡った空が好きで、高校の屋上で過ごすことが多かった。もともと勉強するほどたいした内容でもない授業と、椅子と机に挟まれた檻みたいな教室が嫌いになったのは、学歴と外見だけで判断する先公たちがまるで看守みたいにのさばるからだ。 どうでもいい。 そう思っていた。 高校を出ようが出まいが、自分には関係ない。いや、親や先公には関係ないことだと突っ張っていた。 親に恥をかかせるために白金学園に転入し、一人暮らしをして好き勝手した。大人は年ばかり食っててろくなことを言わない。やつらのこそ、汚く醜い人間だと馬鹿にしてきた。奴らを困らせるのを正当化していたのかもしれない。 「お前ら、不良結構。だがな、中途半端な不良ならするんじゃねぇ。もっと胸張って不良やりやがれっ!!!」 本気で殴られたのは久しぶりだった。 なんか夢から覚めたような衝撃だった。あの女の存在はそれほど俺の中でははっきりと鮮明に映った。 初めて学校が面白いと思える。口先だけの仲間とつるんでいた時とは違う。毎日が楽しくて仕方なくなった。 外見で判断せず、アイツは俺たちを信じた。先公にして置くには勿体無いくらい度胸の据わった女だ。まぁ、実家が実家だから当然といえば当然か。 晴れることのない灰色の雲が、消し飛んだ感覚だった。 「こら、沢田。サボりとは良い度胸だな」 「何言ってやがる。もう放課後じゃねぇか」 仁王立ちの担任、ヤンクミの姿に俺は肩を竦めた。図星を指されて顔色を変える。まったく隠し事のできないタイプだよな。 屋上はこの学校で一番高くて眺めがいい。それを知っててアイツも来るようだ。たまにバッティングする。 「タバコは止めとけよ。肺が腐るぞ」 「吸わねぇよ。あんな不味いもん」 「そうか。なら、いい」 素直に納得してヤンクミは屋上の手すりにもたれかかった。 俺たちの言うことを嘘だと疑わない。先公じゃなくても珍しい大人だ。誰もがまずは疑う外見をしているのに、逆に回りの先公から疑われれば殴りかからんばかりの勢いで詰め寄る。面白いけど、見てて危なっかしい担任。大学卒ですぐ新任だから、年はそんなに変わらないか。 「今日は良い天気だったなぁ。雲が一つもない」 「明日からまた天気悪いらしいぜ」 「そうか。なら今日はめっけもんだ」 「そこまでのもんかよ」 まるでガキだな。天気の一つ二つで顔色変える先公なんて聞いたことがねぇ。でもこの女なら、それもありか、と妙に納得できる。不思議なやつなんだ。 不器用で、単純で、要領の悪い奴だが、ここぞという時の目が違う。どんな時も筋を曲げない。曲げた方が諦めた方が楽なことばかりなのに、こいつは諦めない。その諦めの悪さに惹かれるのかもしれないな。 「沢田ぁ」 「なんだよ」 急いきなり名を呼ばれて顔を向ける。手すりに手を置いてヤンクミは町を見渡していた。 喧騒溢れるこの町もこうやって景色を眺めると綺麗なものだ。高い建物がそう多くないから屋上からは遠くまでが見渡せる。 太陽はずいぶんと西に傾いたが、まだ空は真っ青だ。雲が一つもないというのも梅雨の真っ只中では珍しい。風に湿り気がなくて涼しい。 「こうやって、手を伸ばしたら空に届くような気がしないか?」 不意にヤンクミが手を伸ばした。その手は真っ直ぐと空を指している。 鈍い痛みが胸を走った。その光景に何かを思い出した。まだ無知な頃の自分を……。 「届くわけねぇだろ」 「それはそーだけどさ。なんか届きそうじゃないか?」 「ありえねぇだろ。遠いんだから」 尚も手を伸ばすヤンクミに苛立ちを覚える。望んでも得られなかった笑い話が妙に痛かった。 反らした視線の端でヤンクミが不敵に笑う。絶対の自信を持った揺るがない面持ち。 「ありえねぇことじゃねぇよ」 凛とした通る声でヤンクミは言った。俺は言い表せないもどかしさに唇を噛む。だが、その不安を打ち払うようにヤンクミは右手を真上に上げた。真っ直ぐに空を指差す。 「空なんて形のないものは、いつでも掴めるんだ。手を伸ばしさえすればな」 ヤンクミの口端が笑みの形に歪んだ。 青い空に手を伸ばす。つかめないものだと諦めてきた人間の上をあっさりと飛び越える。そのスケールと無鉄砲さに興味をそそられた。 「……ヤンクミ」 「今日日のガキは夢がない。手を伸ばせば届くところにあるのに手を伸ばさない。……なら、私は手を伸ばせば可能性があるんだってことを教えてやりたいんだ」 力強く握り締める拳。そんなに大きな手じゃない。女の手だ。 でもあいつの手はでかくて、なんでもできる魔法のようにみえる。 「可能性……そんなもん本当にあるのか?」 「あるよ。人生諦めたらそこで終い。諦め悪く生きるってことが人間だって、知らないだけだろ」 「お前に『諦め』の二文字はねぇな」 「あたり前。人生は、七転び八起き。転がっても起きりゃあいいんだよ」 「お前らしいな、ヤンクミ」 「そこで覚めたツラして納得してんじゃないよ、沢田。若くねぇぞ」 「お前より、年は若い」 「煩いなぁっ!!!!」 どうやら痛いところを突いたらしい。ヤンクミはすぐに頬を膨らませた。年の話はやはり女には禁句か。 早足に屋上の手すりから校舎内に通じるドアに向かうヤンクミに何か伝えたくて呼び止めた。 「なぁ、ヤンクミ」 「なんだ?」 振り返るアイツの顔に思わず見惚れた。 眼鏡を取って髪を解いたアイツのカッコよさには惹かれるが、こんな馬鹿先公っぽい姿にも目を惹かれるなんて焼きが回ったように気もする。 「……いや、別に」 「変な奴だな。ほら、戻るよ」 首を傾げて俺を見る。 「あ、ああ」 ――― 俺も昔はそう思っていた。 そう言い出すキッカケがヤンクミのおかげだなんて思われたくなくて、俺は素直に言えずにいた。 誤魔化すように見上げた空は、相変わらず青くて広くて、ただただそこにいる。頬を撫でる風は優しく、あいつの髪を揺らす。 手を伸ばせば、本当に届くような気がした。 慎くみです。やんくみは結構子どもの時の気持ちを大事にしている先生だから、情熱も通じるんです。慎ちゃん、惚れっぱなしだ(笑) |