背伸びをして、腕を伸ばせ














届くものがある。
手を伸ばせばなんでも手に入れられると思っていた。
限界まで背伸びをして、腕を伸ばせば何物も手に入ると思っていた。人の気持ちさえも。

それでも、伸ばしても伸ばしても届かないものもある。

失うことの怖さに、伸ばせずにいるこの両手。







「はい、マコト」

短い呼び出し音の後、聴き慣れた声がした。外にいたのか周囲は騒がしい。時折クラクションが甲高く響いている。おれはしばらく受話器の向こう、マコトのいる場所を感じていた。

「……タカシ?」

無言でいるおれに不安げな声音で名を呼ぶ。それだけで距離がより近く感じるのは気のせいなのか。電話越しでおれはそっと自嘲めいた溜め息をつく。感づかれないように。

「……あぁ、今夜時間はあるか?」

「あー、店番があるけど、また何かあったのか?」

わずかにトーンが下がった。周囲に気を配っているようだ。姿は見えないのにまるで目に浮かぶ光景をおれは微かに笑った。

「いや、たいした用じゃない、久しぶりに時間が取れた。労いに一杯どうだ?」

「珍しいなぁ。……わかった、何とかするよ」

それだけ言って、マコトは電話を切った。おれはしばらく受話器を眺めていた。

高校の時にはつるんでケンカばかりしていたような気がする。
ろくに授業にも出ず、(というかあれくらいなら出なくてもわかるが)他校からのケンカの誘いに飛び乗って、マコト共々池袋中を走りまわっていた。ガキというのは恐ろしいもので、自分に怖いものがない時にはその行動力は無限大になる。いくらケンカをしても、殴られて傷塗れになっても平然としていた。もちろん負けたことなじなかったが。

その時、隣りにはあたり前のようにマコトがいたのだ。

今思えば、当然というのはあまりにも少ない時間の中で、いつのまにかマコトがいるのがあたり前で、どちらが強要したわけでもないのに連れ立って遊んでいたような気がする。
ふと、横を向けば同じ高さにマコトがいた。おれの上でも下でもない位置でマコトは笑って立っている。くだらない話をして笑ったり、怒ったり、泣いたりしていた。それがあたり前のように思っていた。

高校を卒業したと同時に歩く道は二手に分かれた。別に袂を隔てたわけではない。ただ、おれの職業とマコトの職業に接点がなく、今まで毎日のように合わせていた顔を合わせることがなくなったからだ。
あたり前だと思っていたマコトの存在がなくなって初めて、背中に肌寒さを感じた。振り返っても同じ目線に誰もいない。

これを信頼と呼ぶのか、依存と呼ぶのか、わからない。












「時間どおりだな、タカシ」

気付けば車は指定された場所、ウエストゲートパークに着いていて、ドアを開けたツインタワー1号の脇からマコトが陽気な顔で声をかける。だがおれの顔を見て、マコトは笑顔を仕舞うとわずかに声音を落とした。

「……なんかあったのか?」

おれの表情を見て、何を考えているのか察する感の鋭さは相変わらずか。
そもそもおれは昔から表情が豊かな方ではない。それ故に物心ついたときから実の親にさえ感情を掴まれた経験はない。だが、マコトにはどんな無表情を通しても勘付かれた。世の中にはこんな奴もいるのかと、それこそおれ自身一番驚いた出来事だったかもしれない。
眉を寄せるマコトに「なんでもない」と、おれは薄く笑って顔を横に振った。マコトは「そうか」とだけ呟き、おれのとなりに乗り込む。
おれは運転手に目で合図を送り、車は指示通り夜の街に入っていった。








地下へ降りる階段の入口で車は静かに止まった。音もなくドアが開かれ、夜の街が顔を覗かせる。降りれば冷えた空気が心地よい。視界の端でマコトがジャケットの襟元を引き寄せていた。吐く息は白い。


「今日は一体どういう風の吹き回しなんだ?」


地下には厚い木製の扉が佇んでいた。マコトはゆっくりとドアを引きながらおれの方をちらりとみる。店員がすぐさまドアを支え、畏まった面持ちで迎えた。カウンターではなく奥の個室に案内させる。

「なにが、だ?」

「忙しい王様がおれなんかを連れて飲みに行くってだけでもなんかありそうだろ?」

「そうか?」

「ましてや護衛も付けずに二人で飲むなんざ、何年ぶりかな」

「安心しろ、裏などない」

「いや、信用してる。ただ久しぶりだからな」

柄にも無く嬉しかったんだよ。マコトはそう言って笑う。
その横顔を見たとき、おれの胸の真ん中を締め付けるような痛みが走った。この痛みの理由はわからなかった。わからない振りをしていただけかもしれないが、

「飲みたかったんだ、おまえとな」

言葉にならない感情を胸の中に仕舞いこみ、おれはそう言ってから注文する。ついで「おごりだ」と付け加えるとマコトは目を輝かせて注文をした。嬉々とした表情に眩しさを感じる。
変わらない。少しも変わっていない真っ直ぐで無鉄砲で、かと思えば冷静で、慣れる事の無い言動でいつもおれの目を奪う。

「なんか、お前、疲れてないか?」

「いや、忙しさはお前ほどじゃない」

「うわ……どこまで知ってんだよ」

「ここ二週間のことは大抵耳に入っている。おれはよほど職を間違えたような気がするぞ、マコト」

「おれだって好きで首を突っ込んでるつもりはないけどな」

「いい傾向だ」




「なぁ、タカシ。なにかあったのか?」


今日会ってから幾度となく繰り返された台詞におれは改めて己の内で反芻した。視線を感じる方を向けば、マコトがグラスを片手に持ちながらおれの方を見ている。目が合う。それだけの奥底を見抜かれたような気がした。

マコトが繰り返すのは池袋でもウエストゲートパークでもGボーイズのことでもない。おれ自身のこと。




「……なぁ、マコト。高3の時の水工とのケンカを覚えているか?」

見ることに関して、マコトを欺けるとは思っていない。それでも曖昧な笑いで誤魔化したのは、なけなしの意地だった。マコトの前では何もかも脱ぎ捨てたただの男になれる。誰かのトップでもなく、キングと呼ばれる男でもない。ただの安藤崇になる。

マコトはおれの問いかけに頷いた。ケンカ三昧の高校時代の中でも一、二の激しいケンカだった。相手は7人と少なかったが、マコトがおれ宛の果たし状(こういうところは古風だ)を勝手に受けて、派手にやられかけたケンカだった。

「覚えてるよ。行ったらいきなり金属バットで殴られた」

「そうだ。おれが行く頃には血まみれになっていたな。それでも4人は伸してた」

「……そうだったかな?」

「そうだ。あの時ばかりは肝が冷えたぞ、マコト。他人のケンカに首を突っ込むなんてな。……お前は甘すぎる」

「違うよ。おれとお前を間違えて喧嘩売ってきたんだよ」

「そうなのか?」

初めて聞く話だ。思わず聞き返した。
7対1の喧嘩はもともとおれ宛だったと聞いていた。そういえば聞いたのもマコトからだったから対して気に止めてはいなかったのだが。おれが気付いて喧嘩の場所に出向いた時にはマコトは4人を地面に倒し、残る3人と喧嘩の最中だった。相手は刃物を持っていてマコトの頬に走る裂傷があった。おれは遅ればせながら飛び込むと世話になったマコトの分を上乗せして連中に返してやったわけだ。

「そうだよ。奴らしかも『安藤マコトだな』って、おれとお前の名前も混同してた」

「はっ、それは笑える冗談だ」

「おれも呆れた」

二人して笑いの余韻を残しながらグラスを傾ける。今になって初めて知った当時のいきさつにおれは胸のうちで燻っている戯言を思い出す。水臭いとかカッコつけだとかいろいろと厭味のように言った気がしたけれど、本当のところ何故あの時、自分が焦ったのか、はっきりとわかった。

気付いてしまったという方が正しい。自嘲してグラスの中身をすべて煽る。その飲み方にマコトがおれの横顔を見詰めるのがわかった。そしてまた同じことを口にしようとしている。「何かあったのか?」、と。
その前におれはグラスを置いた。




「マコト。……おれは、オマエになりたかったんだ」


一瞬、躊躇はした。それでも酔いに任せて言ってしまいたかった。酔うはずのないおれがこの程度の酒で……と思われるかもしれなかったが、今伝えておきたい衝動には変えられなかった。酔ったつもりにして笑って冗談にしてしまいたかったのかもしれない。
女々しいと自嘲しながらも、マコトに対して冷静に見せかけるのは嫌だった。対等の存在だと思い込んでいたのは、もしかしておれだけか。



「知ってる」


存外、あっさりと頷かれた。思わず拍子抜けする。こちらの冗談を冗談として返しただけなのかもしれない。目を合わせずにおれはグラスを握った。中で氷が乾いた音を上げる。

「そうか……」

曖昧に相槌を打つ。次の瞬間、マコトはおれの方に向き直り、いつになく真面目な面持ちで見据えてきた。

「でもおれは、お前になりたいとは思わないぜ、タカシ」

少しだけ低い声。それはマジになっている証拠だった。今更だが後悔する。

「だろうな」

自嘲を含んだ軽い相槌。真っ向から否定されなかっただけでも良しとするべきか。それともおれの目に捉えられないくらいの奥底で軽蔑されているか、わからなかった。マコトのことでわからないことがあるのかとこのとき改めて実感する。なんだか癪だった。
そんなおれの葛藤にマコトは気付く様子を見せず、おれの頭をポンポンと撫でた。まるで幼子の頭を撫でるような仕草で。驚いてマコトの顔を見ると案の定、ニカっと笑った。悪ガキが悪戯を成功させた時のような屈託のない笑み。


「おれがお前になったら、お前とつるむ楽しみが無くなるだろ?」

そう小さく笑うマコトにおれは唖然とする。そういえばこういうやつだったと、どこかホッとする自分がいたのは確かだ。マコトはおれの頭を飽きるくらい撫でて、そしてウェイターに酒を二つ注文する。
なんだか今まで思い込んでいたすべてが馬鹿らしく思えて、おれは黙ったままマコトの好きなようにさせていた。おれもマコトになりたかったわけではない。本当はこうしてマコトと一緒に馬鹿みたいに笑っていられる時間が欲しかっただけなのだ。

「確かにそうだな」

羨ましいとおもう心はある。だが、それと同時に向けられる信頼が何よりも嬉しく思える。おれの中でこれだけ居座る人間は間違いなくマコトだけだし、マコトもおれのことを特定多数の友人よりは若干ランク高く認識している。それだけで充分じゃないか。高校の時から変わってなんかいない。

グラスに注がれた酒を二つ、おれたちの前に置いていくウェイターを視界の端に映していたが、マコトがその一つをおれへと渡す。みればマコトが顔の前でグラスを揺らした。何がしたいのか、すぐにピンとくる。同じようにグラスを右手に持ち替えた。

「乾杯」

マコトがはにかんでグラスを差し出した。つられるようにおれも差し出すと、グラスは甲高い音を上げる。
面と向かって、しかも野郎同士で乾杯なんて笑える話だが、おれはようやく手を伸ばせたような気がした。
背伸びをして、手を伸ばしても届かないと思っていたところは、案外あっさりと届いたようだ。

今日は、久々に飲み潰れるまで酒を飲もうと思った。













タカシ視点で。口に出さないというか顔に出さないけど、かなりマコトのこと特別視している。実はキングでもボスでもないただの人間だったことを良く知っているのがマコトなのかな、と。