やさしさの意味












にゃあ

という子猫の鳴き声を聞いて大神は顔を上げた。視線の先にはアイリスが仔猫を抱いて佇んでいる。不安げな暗い面持ちと彼女の腕の中で震える子猫の様子から事情の半分を察した。

「アイリス、どうしたんだい?こんなに遅くに」

伝票整理の手を止めて、大神は優しく尋ねる。

「あのね、お兄ちゃん。この子、中庭で迷子になっていたの」

差し出された手の中にうずくまる小さな仔猫は、アイリスの言うとおり元気がまるでない。寒さのせいもあるのかもしれいが、かなり弱っているのがわかる。泣き出しそうになるアイリスの頭をゆっくりと撫でて大神はしゃがみこんだ。目線が彼女と同じになる。

「よし、この仔は俺に任せてアイリスはお休み。今晩はオレがしっかりと看病しておくから」

「本当?」

「本当さ。明日になって子猫が元気になったとき、アイリスが元気でなかったら仔猫が悲しむだろ?」

同じように頷く。アイリスは涙のたまっていた目を擦った。

「明日には元気になる?」

「元気になるよ。だから今日はゆっくりとお休み、アイリス」

「うん、ありがとうお兄ちゃん」

にわかに明るい笑顔を見せて、アイリスは大神に仔猫を託すと自室へ戻っていく。その後姿を見送りながら大神はしばらく考えた。



伝票作業をひとまず中断して、食堂でミルクを温めてみる。仔猫がおなかを減らせているだけなら、まずはミルクでいっぱいにしてみるつもりだが、どうやらそれだけではないらしい。

少しだけ仔猫はミルクを飲んだが、すぐにうずくまってしまった。やはり寒さで身体が弱っているのだろう。

「あまり元気がないな……霊力を少しずつあてて、この仔の治癒力を活性化させてみるか」

治癒技はあまり得意ではないのだが、この際文句は言うまい。過度になりすぎないように慎重に大神は手をかざす。心持ち青い光が室内に広がった。



どれほどそうしていただろうか。

すやすやと穏やかな寝息を立て始めた仔猫の様子に大神はホッと一息吐いた。もう仔猫は大丈夫だろう。時間はかかるかもしれないが元気になってくれるはずだ。
そう安堵したせいか大神を襲う脱力感が彼を眠りへと誘う。このところ立て込んでいた事務仕事と雑用が疲労となって蓄積していたと見える。逆らい難い睡魔に大神は瞼を閉じてベッドに持たれた。














「いよーお、大神。……あれ、大神?」


すでに窓が入り口になっている闖入者、加山がいつものように、とぉーっ!……と大神の部屋を訪れた時には、部屋の主はベッドにもたれ掛かって舟をこいでいる。

「なんだなんだなんだ?こんなところで寝てると風邪引くぞ、大神」

寝顔を見るのは初めてではない加山だが、この帝都で防衛の任を預かり、いつも毅然とした態度で職務を全うしている大神の姿から言えば懐かしくもあった。
このままにはして置けまい。そう思いベッドの毛布を取ろうとして手が止まる。目の前にいるのは小さな猫だ。

「にゃあ」

「お?仔猫か……なんでここに」

小さいながらも逞しい鳴き声がする。元気良くベッドの上を歩き回る姿を大神が見たらさぞ喜ぶだろうが、加山は仔猫が弱っていた事実を知らずにいた。頭を撫でてやると猫は人懐っこくゴロゴロと喉を鳴らす。

「どうやら腹がへってるみたいだな」

「にゃあ」

まるで返事のように鳴く仔猫の傍には冷めたミルクが器に注がれている。加山は大神へと視線を移し、息を吐いた。

「そうか、この仔の面倒を見ていたということか、大神。相変わらず優しい奴だなぁ、お前は」

海軍士官学校で出遭った時から、大神には人を惹きつける温かい雰囲気というものがあった。厳格を極めた士官学校の訓練においても大神の率いた組は1人の落第者を出さなかった。加山も尽力したということもあるが、大神は人知れず彼らのサポートをしていたからだ。それを優しさと取るか、甘さと取るかは別としても、この帝劇で彼女達を過酷な戦いに立ち向かわせなければならない中で大神の持つ温かさは心強い力となっているはずだ。

「帝劇の彼女たちを影で支えながら臆面にも出さない。昔から頼まれたことにはけしてNOといわないお前だが、無理ばかりしているようで俺は心配でたまらんぞぉ、大神」

そう呟いて加山は大神の黒い髪を撫でた。
弱味を見せない、とは少し違う。何でもできるほど完璧でもない。だができることに関しての努力を惜しむ性質ではないことを加山は良く知っていた。あまりにも熱心なその姿に見ているこちらの方が不安を覚えるほど、大神は奮闘する。

「まぁ、面と向かっていうと殴られるかもしれんがな」

そう苦笑交じりに寝ている大神へと告げる。こんな台詞、起きている時にはさすがに照れて口にはできないだろうけれど、心配しているのは確かな気持ちだ。だからこそ花組の影である月組への入隊を快く承諾したのだから。

「よし、後は俺が面倒を見てだなぁ……」

足元に纏わりつく仔猫の様子を見ながら、加山は冷めたミルクの代わりを求めて食堂へと足を運んだ。
勝手知ったる他人の家、というわけではない。日頃は舞台裏の大道具などを月組も担当しているだけに、この建物の隅々まで加山の頭には入っていた。慣れた手つきでミルクを温めると甲斐甲斐しく世話を焼く。
意外とマメな性格だということを知っているのは極少数の人間。隠密行動を主たる仕事としてこなしている彼は当然のことながら他者と関わる機会は少なかった。無論、こうしてわざわざ会いに来る大神は別としても。

ミルクを与え、室内を暖め、そして猫の寝床を確保する。毛布を丸めて間に猫が丸くなれるスペースを作ってやる。おなかもいっぱいになり、温かい部屋の中で仔猫は上機嫌な様子で再び眠りに入った。

「これで朝には元気になっているだろうよ」

昏々と眠る大神の姿はさすがに珍しく、加山はそっとベッドへと横たえる。その寝顔は年月を経たが士官学校の時と変わらない面持ちだった。

4年という士官学校での時間は長いようで過ぎてしまえば一瞬だった気がする。苦しいことも楽しいことも沢山あった。どちらかといえば苦しいことの方が格段に多かったはずだが、過ぎてしまった今となってはそれもまた一つの想い出に過ぎない。大神との出会いも桜咲く校庭から始まった。同室になった時も驚きながら、どこか出会うべくして出会ったような不思議な気持ちだった。

それから数年。
無事に卒業し、もう出会うこともないだろうと思ったこともある。あの時の哀しみは味わったことのない苦しさも含まれていた。だが、こうして同じ帝都を守るという職務に着き、日夜共にある。例え光と影であったとしても、距離は近い。それが何よりも嬉しかった。


「大神、俺には遠慮なんてするんじゃないぞ」

本当は起きている大神に言いたいのだが、どうも照れがでてしまう。
名残惜しげに幾度も大神の髪を撫でた。どこか幼子を寝かしつけるような仕草にしていた本人が思わず苦笑する。目の下の薄いクマに大神の疲労を知る。
加山は加山で、大神は大神で闘っている舞台がある。背中合わせで守っている者たちがいる。守り通したい平和がある。その双肩に重圧がかかっていることは間違いないが、少しでも支えになりたいという気持ちも本当だ。そのための月組隊長でもあるだろう。

いろんな想いを胸に加山はこの部屋に訪れた時同様、窓から帰っていた。






翌日、アイリスが大神の部屋へと訪れると、そこには元気になった仔猫の姿があった。嬉々として喜ぶ彼女と喜んでいるように見える元気な仔猫。庭にいる番犬シロと仲良くしてくれそうだ。

「よかったね、アイリス。アイリスの願いが通じたんだ、仲良くするんだよ」

「ありがとう、お兄ちゃん」

小さな淑女はとても喜んで廊下中を踊って回った。彼女たちの嬉しそうな笑顔が帝都に平和と幸せをもたらしていると大神も感じている。その小さな手伝いならいつでもするつもりなのだろう。はしゃぐ声に他のメンバーが集まり始めたのを見て、大神は一階へと向かった。


「よお、大神」

階段を降りはじめて数段、不意に上から声がかかる。顔を上げると屋根裏部屋へと続く階段に白い背広に赤いワイシャツの加山が立っていた。

「加山、昨日はありがとう」

「へ?……起きてたのか?」

思わず硬直する加山。昨夜はてっきり熟睡しているのかと思っていただけに、思い出すだけに恥かしい台詞ばかりだ。あれを大神に聞かれていたと思うとなぜか奇妙に照れてしまう。
ぎこちなくなった加山に気付かず大神は曖昧に苦笑いを浮かべ、頭を掻いた。

「いや、なんとなくお前には世話になった気がするんだ」

はっきりと覚えているわけじゃないんだけど、と大神も言葉を濁した。どうやら夢うつつでという範囲か、加山は内心ホッとする。

「そ、そうか、まぁ、そんなこともあったかもな」

「どうかしたのか?」

「いや、全然、まったく」

「変なヤツだなぁ……でも、いつもお前がいてくれると思うと心強いのは本当だぞ、加山」

「そうか。そいつは光栄だなぁ、大神」

俺は幸せだなぁ〜と歌い始めそうになるのを大神は慌てて押さえ込んだ。
アイリスたちは仔猫に夢中でどうやら気付かれてはいない。どちらにしても幸せそうな雰囲気が劇場中に漂っていた素敵な朝となった。

帝都の平和を守るために奮闘する彼ら、彼女たち。

その優しさに包まれて、みんなに幸多い世界になりますように。










いろんな優しさについてちょっと考えてみたら、まとまりがなくなってしまった。でも加山と大神、仲良しさんですから(笑)