机上の影









「おーい、大神……」

宿舎へ戻っていつのものように部屋のドアノブを回した加山は、先に戻っていたはずの大神の姿を机に突っ伏した形で見つけて思わず息を吐いた。卓上のランプがドアを開けて入り込んだのだろう風に吹かれて揺らめく。つられて机上の影が歪んだ。

士官学校での日常は決して楽なものではない。毎日早朝から晩遅くまで、指揮官としてのノウハウをこの4年の間に叩き込まれる。そうして無事に卒業ができれば、軍部のエリートとして迎えられるのだ。ここ江田島は海軍士官学校、卒業が意味するのは海軍への正式な入隊となるのだろう。

大神一郎と加山雄一。ひょんなことから同室になり、すでに一年が経過している。士官学校の厳しさにもようやく慣れ、意気投合している。周囲は誰もがライバルで一番でも上を目指す連中ばかりだが、その中でこの2人は間違いなくトップの1,2を争う間柄だった。それでもよきライバルとして、よき仲間として日々を共に過ごしている。

「また寝てるのか、風邪引くぞぉ」

おどけた口調で寝ている大神の顔を覗き込めば、読みかけの本が開いたままだ。これを読みながら寝てしまった、というところだろうか。
大神は書物が好きで、時間があればかなりの冊数に目を通している。士官学校内の図書室では常連の一人だ。
今読んでいるのは……洋書か。

「よくもまぁ、そんな小難しいやつを読むよな」

思わず感嘆の溜め息を零しながら加山は大神の寝顔を見た。同い年の年相応の顔がそこにある。授業中は微塵の隙もない完璧な回答をし、航海訓練では明確で率先した指示を飛ばす。指揮官になるために生れてきたような男だが、自分となんら変わらない若者であることも確かだ。

ふと、加山は視線をそらせた。
頼もしい仲間であり、腹を割った話もできる親友だと思っている。大神ほど頭の切れる男はいないし、また性格も良い。その上、それが厭味に感じられないというのだから、天は二物どころか三物を与えているような気もする。
それとは別にこうして寝顔を見ていると奇妙な気持ちを覚えるようで、加山は手荒に頭を掻いた。
少し疲れているのかとも思う。
決まって大神のこととなるともやもやとした腹の底に溜まる不可解な澱みをふとしたはずみで気付くのだ。

「まだまだ俺も修行が足りないってことか」

自嘲気味な溜め息を吐きながら、加山は大神の肩を数度揺すってみたが起きる気配はない。今日は天候が荒れていた上の強行訓練だったからさすがの大神も疲労しているのだろう。

よいしょっ、と加山は大神を肩に担いだ。同い年の割に大神は線が細い。華奢とまでは言わないが筋肉の付き具合が薄かった。加山とは対照的だ。加山の方が上背もある。

「軽いな……」

思わずといった感で加山は呟いていた。
身につきにくい体質だと大神は言っていたが、それにしてもこの軽さはないだろう。食も決して細くはない。身につきにくいというのは本人のいうとおりなのだろうが、それにしても軽すぎはしまいか。
驚いて大神の顔を覗き込んだ時、加山の耳に囁きにも似たかすかに声が飛び込んだ。思わず目を瞬かせて己の耳を疑う。大神は相変わらず寝息を立てているから寝言だというのは間違いないが、それにしてもタイミングが最悪だ。

(まさか、俺の名前を呼ばれるとは……)

カッと顔が熱くなるのがわかる。みっともなく焦り加山は対面にある大神のベッドへと足早に向かった。起こさぬように寝かせてから身体を起こそうとして大神の顔に目が止まる。見慣れたはずなのにどこか見惚れてしまいそうで加山は息を飲んだ。

「大神……」

こんな想いを抱くことすら大神に対する侮辱だと、そう言い聞かせても加山の中から消えることはない。女に対して、ましてや男に対してここまで深く苦しい感情を抱くことはなかった。大神だからこそ、この胸は痛むのだ。それでも口に出すことはできない。
こんな浅はかな想いで傷つけるわけにはいかない。

複雑な想いを胸に大神をしばらく見下ろしていたが、やがて加山は背を翻す。
そうして、机上に暗い影を揺らめかせているランプを荒々しく吹き消した。








*コメント
加山→大神で。士官学校時代ですな。ちょっと暗めですが、加山の片思いかな。